喜多方市の概要
喜多方市は、県西北部にある会津盆地の北部に位置し、東に磐梯山、北に飯豊山があり、豊かな自然に恵まれたまちです。市域は、国道121号大峠道路や磐越自動車道による交通利便性の向上と、街並みが整備されたことなどにより、観光ルートが確立されています。産業では、良質な水・米を原料とした、酒・みそ・醤油などの醸造が行われています。また、桐材加工・漆器などの伝統工芸も盛んで、近隣町村を含む商圏は、会津地方北部の中心的な商業ゾーンとなっています。国登録有形文化財である甲斐家住宅蔵座敷をはじめ、市内には2,600棟もの蔵が散在し、「蔵とラーメンのまち」として、年間100万人を超える観光客が訪れています。
喜多方のあゆみ
喜多方市には、6世紀頃の3基の円墳からなる古墳群があり、古墳時代には、既に人が生活していたことがうかがえます。3基のうち糠塚古墳は、直径17メートル・高さが5メートルあり、会津平坦地にある古墳の中で最も大きい円墳(県指定史跡)とされています。元は周囲にも小円墳が分布していましたが、戦後の開発により失われ、現存しているのは、主墳の糠塚と粉(小)糠塚と山首神社の3基だけとなりました。また、有力者のお墓といわれる輪具古墳群では、2つの古墳が発見され、1号墳からは、積石の竪穴石室が見つかり、その中からは、鉄斧・管玉・ガラス玉・耳飾りが出土しました。
時は平安時代。会津・葦名氏の祖、佐原十郎義連(さわらじゅうろうよしつら)は、関東武士・三浦大介義明の子で、元暦元年(1184年)に、源氏と平氏の戦いで活躍しました。翌年の一ノ谷の戦いでは、源義経と共に、「ひよどり越え逆落し」で平氏の背後から馬で奇襲し、平氏を敗北に導きました。奥州平泉征伐後の文治5年(1189年)には、源頼朝より会津の地を与えられ、領主になったといわれています。その後、佐原氏が3代目になると、葦名(あしな)氏・北田氏・新宮氏・加納氏などが分割して支配し、特に葦名氏が勢力をもつようになりました。佐原十郎義連の孫の新宮六郎左衛門時連は、建暦2年(1212年)、新宮城を築きました。葦名氏に滅ぼされるまでの約200年間、新宮氏の居城となった新宮城は、二重の堀と土塁で囲まれた方形で、その城跡からは金銅仏などが出土されています。加納氏の本拠となる青山城跡は、集落西側の丘を中心に一曲輪、北側に土塁と堀跡、南側に平場と堀切が残っています。
江戸時代より、「みちのくの蔵」として知られる蔵の数は、明治13年(1880年)に起きた大火で、約300棟が灰と帰しました。失意に沈む村人たちの目に映ったのは、一面の焼け野原の中に、くすぶりながらも残った蔵の姿でした。そのためなのか、倉庫として用いられることの多かった蔵が、住居(蔵座敷)・店舗(店蔵)・工場・醸造場・寺院など、様々な形で人々の暮らしと深く結びついていくことになりました。
明治8年(1875年)の県布達により、5ヶ村が合併し、喜多方町となり、その後、昭和29年(1954年)には、喜多方町・松山村・上三宮村・岩月村・関柴村・熊倉村・慶徳村・豊川村の1町7ヶ村が合併し、喜多方市が発足しました。現在では、会津地方の中核都市として、平成12年(2000年)に策定した喜多方市第4次総合計画「きたかた新世紀共生プラン」に基づき、将来都市像である「きらめく個性と豊かな自然が共生する快適生活都市 喜多方」の実現に向けて、まちづくりが積極的に進められています。
更に、平成18年(2006年)1月には、熱塩加納村・塩川町・山都町・高郷村の合併を控えており、新「喜多方市」が誕生する予定です。
喜多方の名前の由来
喜多方市は、若松より北に位置することから、北方(きたかた)と呼ばれていましたが、明治8年(1875年)の県布達により、5ヶ村が合併し、北方の呼び名にちなんで「喜多方町」が誕生しました。
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喜多方市郷土民俗館 |
| 住所: |
喜多方市字柳原7503-1 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0241-22-4154 |
| 開館時間: |
9:30〜17:30 ※土・日曜は16:00まで |
| 休館日: |
第3日曜、祝日、12/28〜1/4 |
| 入館料: |
無料 |
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